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元プロ投手近田さん、駅員に 報徳で甲子園3度出場 [時事]

選抜高校野球大会2回戦を26日に控える兵庫県の報徳学園(西宮市)。10年前、同校の左腕エースとして甲子園のマウンドに立った近田怜王(ちかだ・れお)さん(26)=西宮市=が、JR三ノ宮駅の駅員として新しい人生を歩んでいる。チームメートとともに白球を追い掛けた3年間を「いいことも悪いことも凝縮された、人生のターニングポイント」と懐かしむ。

 「点字ブロックの内側にお下がりください」。三ノ宮駅のホームに、近田さんの声が響く。

 マイクを持つのは、右手。「投げるのも打つのも左ですけど、マイクはなぜか違うんです」と笑う。

 外国人観光客から英語で質問されたり、車いすの乗客を介助したり、酔客に対応したり。兵庫県内最大のターミナル駅での日々はめまぐるしいが、「怒られても感謝されても、全てが新鮮ですね」。

 区切りを付けて1年余りがたった野球人生。鮮烈なスポットライトに照らされたのは、報徳学園の1年生エースとして臨んだ2006年秋の近畿大会だった。

 31回2/3を投げて2失点という圧倒的な成績で5年ぶりの優勝に導く。直球の伸びがとにかく良かった。

 強力打線の大阪桐蔭(大阪)に対した決勝では、今春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表でも活躍した中田翔選手に本塁打を浴びた以外は3塁を踏ませずに完投。「高校屈指の左腕」の呼称を得たこの試合を、近田さんは今、こう振り返る。

 「野球人生のベストゲームでした」

    ◆

 三田市出身。小学2年で野球を始め、三田リトルシニアに所属した中学時代は、日本代表の主戦投手として世界大会を経験した。

 報徳学園に入学直後は、体重が13キロ減るなど環境の変化に苦しんだが、秋になると実力を発揮する。140キロ台後半の直球とチェンジアップを武器に近畿大会を制し、翌春の選抜では優勝候補の一角に挙げられたが、初戦で惜敗。「打たれる気は全くしなかったんですが、気の緩みがあったんでしょうね」

 夏の選手権でも、県予選を勝ち抜いて甲子園の切符をつかむものの、風邪が完治しないまま臨んだ初戦で脱水症状により降板。チームも敗れた。

 その3日後、始動したばかりの新チームの練習。ランニングの最中に突然意識を失い、救急搬送された。直前の昼食でカレーライスを食べた記憶だけが残っている。

 疲れがたまっていたのだろうと1カ月ほど静養して練習に復帰。5メートルほどの距離でキャッチボールを始めたところ、たたきつけるように相手の足元にボールが転がった。

 仕切り直して、もう1球。同じ軌道で、また低めへ。「コントロールやフォームがどうこういう状況ではなく、赤ちゃんが初めて投げるような感じでした」と振り返る。心身の不調からくる運動障害「イップス」だった。

 練習でボールに触れない日々が続く。表向きは「体調不良」。あせり、思い悩む近田さんをチームメートは優しく見守り、「近田が打たれても、おれたちがカバーするから」と声を掛けてくれた。

 理想の投球を追い求めることに見切りを付けた。「思い通りに投げられない」と感じると、症状が悪化してコントロールが乱れるためだ。「まあ、いいや」と開き直ることで、少しずつ調子が戻っていった。

 3年生の最後の夏、3度目の甲子園に出場。3試合を勝ち抜いてベスト8まで進出し、健在をアピールする。08年秋のドラフト会議でソフトバンクが3位指名。だが、近田さんにイップスが治った感覚はなかったという。

    ◆

 「早く1軍のマウンドに」「できれば先発で」「奪三振王になりたい」

 幼い頃からの夢だったプロ野球選手。マスコミの取材に対し、思いつくままに目標を掲げたが、コーチの問い掛けに、答えが見つからなかった。

 「具体的に、どんなピッチングをしたいんだ」

 練習でも、戸惑った。例えば、自分で目標を設定してのダッシュ。与えられたメニューをこなすことだけを繰り返してきたため、どうすればいいのか分からない。

 描いていた夢が、プロで活躍することではなく、プロに入ることだったと気付いた。

 制球難も克服できず、4年目の12年夏に野手に転向。「クビを覚悟していたからです。将来、指導者になった時のことを考えて経験を積んでおこうと」。その年の秋、1軍出場を果たせないまま戦力外通告を受けた。

 投手として参加した12球団合同トライアウトでも声が掛からなかった。誘いがあったJR西日本に入り、社会人野球の選手として2年半ほどプレー。「プロに戻れる力がない」と判断し、25歳でユニホームを脱いだ。

 現役引退後、痛む体を診察してもらうと、右膝は半月板が損傷し、投球を支えてきた左肩は、関節唇がはがれ落ちていた。今はもう、手首のスナップでしかボールを投げられない。限界だった。

    ◆

 「しんどいこともありますけど、働く場所がある喜びの方が大きいですね」

 15年12月から三ノ宮駅で勤務する。野球選手から鉄道マンという転身にも、戸惑いはなかった。

 ソフトバンクから戦力外通告を受けた後、実家に1カ月ほどこもった経験が影響しているという。何もやることがなく、昼のテレビドラマを毎日見る生活。野球ができなくなるつらさ以上に、仕事がないつらさを実感した。

 今でも、野球かばんを抱えた高校球児が乗り降りするのを見ると、自身の3年間をふと思い出すことがある。だが、それはほんの一瞬。すぐに切り替え、周囲に気を配る。

 JR西に入ったのは、尼崎JR脱線事故で活動を休止していた硬式野球部が再開するタイミング。事故を起こした企業で働く意味は、自分なりに理解しているつもりだ。

 「体を張ってでも乗客を守るのが今の仕事。鉄道の安全に、野球選手の肩書は関係ないですから」(小川 晶)



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