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小室哲哉の介護する苦悩に共感 ! 左半身まひの妻を支えた岩本恭生の実体験 [時事]

不倫疑惑報道を受けて1月19日に開かれた記者会見で、小室哲哉は引退を表明した。重い決断だったが、それ以上に衝撃を呼んだのは、彼が妻のKEIKOの介護に疲れ切っていたという事実である。
「看護師のAさんと逢瀬を重ねていたことが報じられたんですが、小室さんは男女の関係を否定しました。KEIKOさんと夫婦のコミュニケーションがとれなくなり、Aさんに甘えてしまったことは認めています。
 介護に苦しんでいたことを赤裸々に語り、精神的に追い詰められていたことを明らかにしました。真摯な受け答えに共感が集まり、報道した『週刊文春』への批判が高まりましたね」(スポーツ紙記者)
 小室は会見の最後に発言を求め、介護への理解を求めた。高齢化社会に向かう中で、誰もが直面する問題である。

タレント・岩本恭生が語る壮絶介護の経験

「妻は左半身が麻痺してしまって歩行ができず、車イス生活でした。手も使えず、左目が内転しているような状態。嚥下機能も麻痺しており、食事も飲み込めませんでした。リハビリでわずかに話せるようになりましたが、満足には聞き取れませんでしたね」
 妻の恵美さんに脳腫瘍が見つかり、'08年に手術を行ったが失敗。神経の一部を切断してしまい、麻痺が残った。岩本は“主夫”として子どもの世話をしながら妻の介護を行うことになる。
「左半身に麻痺が残っている状態でも、“リハビリを頑張れば、半年後、1年後には……”と希望を持っていました。それを望みに介護に向き合っていたんです。介護の本を何冊も読んで、介護される側も気持ちよく過ごせるように、と考えたものでした。でも、現実は違います。人間にはやはり許容範囲というものがありますよね」
 手術後に恵美さんは性格まで変化してしまう。我慢強いタイプだったのに、ちょっとしたことでヒステリックな反応を見せるようになった。
「僕の気持ちが折れてしまっているときに妻の機嫌が悪いと、ののしりあいのケンカをすることもありました。“どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないんだ”と思うこともありましたね。
 でも本人がいちばんつらいこともわかるんです。今まで普通にできていたことができなくなって、迷惑をかけてしまうと思い込んでしまいますから」
 介護が始まった当初は、毎週のように衝突を繰り返していたという。
「介護をしている僕は、彼女に“ひと言でも感謝の言葉を言ってもらえたら……”と、求めてしまう部分もありました。でも、何も言ってくれないんです。考えてみれば、彼女も不自由な生活でストレスを抱えて、ギリギリの状態だったと思うんですね。でも、介護を始めた当時は、そう考える心の余裕を持てなかったんです」
 溝が深まり、自分も追い詰められていく─。
 岩本は、この状況を変えるべく、気持ちと考え方を切り替えることにした。
「妻に接するときは、子どもを見るつもりで接することにしました。子どもたちは彼女を“ママ”と呼んでいたので、僕は“ママちゃん”と呼ぶことにしました。子どもたちにとっては、僕もママも同じ親。でも、介護されている状態の彼女は、僕と対等ではないと考えるようにしたんです。
 対等な立場だと、どうしても彼女にも感謝の言葉などを求めてしまう。あやすような感覚で接することで、彼女にいろんなことを求めないようにしたんです」
 小室は、KEIKOが女性から“女の子”になったと話していた。岩本は、小室が自分と同じことを感じたのかもしれないという。気持ちを切り替えて新たに介護に取り組んだが、またしても厳しい現実が明らかになる。
「100パーセント以前の状態に戻るのは無理でも、母親として帰ってきてくれるという希望があるうちは、頑張れたんです。
 最初の手術から3年後の'11年に2回目の手術を行うと、腫瘍が大きくなっていました。そこで“失ったものは元に戻らない”という現実を痛感しました。僕たちが夫婦として元に戻ることもないのだと気がついたんです。希望が絶たれてしまったと思いました」
 '12年に実家のある札幌に移住し、岩本の母と同居を開始。生活環境を変えようとしたが、母も倒れてしまう。
「ストレスが倍になりましたね。6年間、禁煙していたのに再び吸うようになり、量も増えてしまって。母が倒れたとき、自分は56歳。子どもたちを置いて、北海道から仕事に出かけることができるのか。そんな状況で続けられるのか。仕事を減らして、収入がなくなってもいいのか……など、60歳を目前にして考えました」

人生の節目を前に積もり続ける悩み

「表舞台に立つ人間という自負がありましたから、笑わせる側の人がつらい話をするのは違うな、と思っていたんですね。小室さんもそうだったんじゃないでしょうか。ましてや、KEIKOさんも芸能人の方。
 本音を包み隠さず言える相手なんて、周りに少なかったんじゃないかと思いますよ。ブログなどで“頑張ってますよ”と発信することは多少の気休めになっているのかもしれませんが、同時に“元気でなければいけない”というプレッシャーにもなってしまいます」
 岩本の場合は、子どもが2人いたことが苦しい中での支えになっていた。
「市川海老蔵さんは、闘病中の小林麻央さんのことをブログに書いていましたね。お子さんがいるから、前を見て頑張らなくてはいけないと思えたのでしょう。
 僕も2人の子どもに支えられました。介護を始めたときは、小1と小3。子育て、介護、そして仕事……となると“子どもたちのために!”って自分を奮い立たせるしかなかったんです」
 小室には子どもがいない。それが心の隙間を生んだのではないかと岩本は考える。
「子どもたちという存在がなくて時間に余裕があれば、僕もどうなっていたかわかりません。妻とは仲がよくて、食事もお酒もゴルフも一緒でした。
 でも、妻を対等な関係性で見ることができなくなって“夫婦”とは呼べない状態だったんです。私も男性ですから、精神的に女性を欲していました。ただ、朝起きると子どもの弁当を作って送り出したり、地方で仕事をしているときは電話で起こしたり……という生活でしたから」
 忙しいことが、むしろありがたかった。それでも頼る人がいない状況が続くと、気持ちが沈んでいく。
「妻とは“夫婦”としての生活が成立していないと思うんです。夫婦というのはどちらかが弱っていたら、もう一方が癒してあげるもの。この思いやりが一方通行になってしまうと、戸籍上は夫婦でもちゃんと“夫婦”であるとはいえないと考えていました」
 介護の疲れから離婚に至るケースは皆無ではない。男女問題専門家で行政書士の露木幸彦氏は、小室と同様に高次脳機能障害の配偶者を介護する人から相談を受けることがあったと話す。
「怒りっぽくなってしまいトラブルが起きることがあります。入浴を嫌がるので注意すると“風呂に入らなくても死にはしない!”と逆上されたり、おねしょをするので“おむつして”とお願いして“バカにしないでよ!”と怒られたりした例がありました」
 ストレスを感じながらも、介護中に離婚する事例は少ないという。
「“日常生活に支障がある場合”には、婚姻関係を継続できないと判断されることもあります。ただ、介護放棄にも見えかねませんし、離婚を決断することは難しいでしょう」(露木氏)
 小室は妻との離婚を考えてはいないが、コミュニケーションが成立しない切なさは耐え難いものだろう。
 岩本は小室にとってAさんの存在が救いになっていたのではないかと想像する。
「KEIKOさんの全快を望みに介護をしていたはずです。それが難しいと気づいたときに、心の支えにしていたのがAさんだったのでは。彼がやっと手に入れた“心の杖”がなくなってしまったら、立って歩けないのでは、と僕は思ってしまいました。
 介護をしていた身からすると、見て見ぬふりをしていてほしかったな、と思います」
 KEIKOは大好きだった音楽にも興味をなくしてしまったという。再び歌手として歌うことを望んでいた小室には、寂しすぎる状況だ。
「彼女本人には、そういった愚痴を言えるはずはないし、以前のような会話もままならない。どこかに救いを求めたくなるのはわかります」
 岩本が自分を保っていられたのは、介護を助けてくれる存在があったからだ。
 妻が入院している間は、病院からの帰り道に毎日のように電話して、愚痴を聞いてもらいました。子どもには聞かせられないような話を姉に聞いてもらうことで、ガス抜きができていた気がします」
 小室は2年前、自らもC型肝炎になっていることを知った。闘病しながら介護を続けるうちに、弱気になってしまったのだろうか。
「僕が小室さんに共感しすぎて美化してしまっているのかもしれません。でも行動はともかく、僕は小室さんの気持ちがわかります。
 僕の場合は夫婦だった思い出や子どもたちのため、という思いを一生懸命、集めて“自分がかつて愛した奥さんではない状態の妻”と向き合っていました。でも、そうするほかない状況だったんです」
 KEIKOは、小学4年生の漢字ドリルが楽しいようだ、と小室は話した。大人の女性としてのコミュニケーションはできない。3年ほど前から疲れ果ててしまっていたという小室の告白に、岩本は共感したという。
「今まで妻だった人が僕の奥さんではなくなるし、子どものお母さんでもなくなってしまう。何ものでもない存在になってしまうんです。
 それほど関係性が変わってしまうので、当たり前の“夫婦”でいることはとても難しいんですよ」
 岩本は、姉の支えや子どもの存在があったから、平静でいられた。
 前出の露木氏はこう語る。
「介護をしていると、相手に優しくなれない自分を追い詰めてしまうことがあります。万が一、介護しているパートナーとうまくいかなくても、介護は誰かが継続します。だから、思い詰めすぎないでほしいものですね」
 小室の行為が誤解を招いたことは確かだが、彼は想像もできないほどの孤独と闘っていたのかもしれない。
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家族の軌跡~ダウン症の次男との10年 (4・完)母の“舞台” [時事]

大村由実(52)が自宅の一角に設けている「えほん文庫」の開館日には、大勢の家族が訪れる。定期的に開くママ会やイベントは、母親や子どもたちの憩いの場。「ここでたくさんの人たちと知り合い、交流が生まれた。ダウン症の剛輝を授かったからこそ」

 文庫は次男剛輝(10)を妊娠する直前に構想した。芝居を演じるために買い集めていた絵本を貸し出そうと、出産から3カ月後にオープン。今月で10周年を迎えた。

 15年前、由実は育児に専念するため、劇団を辞めた。長女真由帆(18)は当時3歳。長男晃央(15)を妊娠し、せりふを覚える余裕がなくなったからだ。

 衆目を集める演劇の舞台を降り、「自らの存在価値を見失った」。代わりに娘に夢を託そうとした。「ピアニストにしたい」「バレリーナになれるかな」。毎日、習い事へ通わせた。

 10年前、剛輝が生まれた。「障害のある子がどうしてうちに」。答えのない問いを繰り返した。家族は障害を気にしていなかったが、「家族に申し訳ないことをした」と思い詰めた。

 わだかまりの矛先は、真由帆と晃央に向かった。飲み物をこぼしただけでもいら立ち、きつい言葉で叱り付けた。しばらくして、真由帆は不登校になった。

 「私と向き合って」「私に期待しないで」。娘の声は、今でも耳に焼き付いている。「なんて駄目な母親なんだろう」。由実はますます自分を責めた。

 真由帆が立ち直り、高校へ進学した直後、夫の昌良(58)が失業した。再就職先が見つからない日々。家族が殺伐としていた時、支えとなったのがえほん文庫だった。

 オープンから1年の節目に、剛輝とともに新聞で紹介され、障害のある子の家族が訪ねてくるようになった。「もし剛輝がいなかったら、その複雑な胸の内を明かしてはくれなかっただろう」

 文庫の存在は口コミやメディアを通じて徐々に広がり、ブログのアクセス数は日に100人を超えるまでに。人の輪が広がるにつれて、「ダウン症の息子と私がここにいる意味」を確信した。

 再就職を諦めて起業した昌良は今年、金融機関が主催するビジネスプランコンテストで最優秀賞を取った。4月、家族総出で授賞式に出掛けた。壇上で夫は言った。「次男を特別支援学校に送り迎えしていた時にヒントをもらいました」。由実は初耳だった。うれしかった。1人背負い続けた家族への後ろめたさを、その一言が拭い去った。

 晃央は小学1年から相撲を始め、6年の時には県大会で優勝した。来春、市外の高校へ進学し、相撲を続けるつもりだ。「もしダウン症じゃなかったら、2人で一緒に稽古に通いたかった。剛輝の障害に対して思うことがあるとすれば、ただそれだけ」と話し、新聞に取り上げられることに釈然としていない。「俺たちは普通の家族で、特別じゃない」

 それでも由実は今、こう受け止めている。「剛輝は、家族一人一人の力を引き出してくれた。5人は互いに刺激し合い、支え合える家族に成長した」

 文庫には、障害のある子を授かったばかりの母親からも電話がかかってくる。10年前の自分のように絶望し、「人生終わった」と思っている人がいたら、こう伝えたい。「ここが始まりなんですよ」(完)
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家族の軌跡~ダウン症の次男との10年 (3)父の起業 [時事]

10年前、ダウン症の次男剛輝(ごうき)が生まれてから、父の大村昌良=当時(48)=は毎日、午後8時には帰宅した。大手企業の半導体開発エンジニアとして、それまでは深夜まで残業する日々だった。

 妻の由実=同(42)=は、わが子に障害があることを受け入れられず、精神的に追い詰められているようだった。「突然気が変になって家族のことを忘れてしまうのでは。あっちの世界へ行ってしまうのでは」。昌良は気が気でなかった。

 小学2年の長女真由帆や年中園児の長男晃央(あきひろ)と比べ、剛輝は筋力が弱く、血流や排便を促すマッサージが欠かせなかった。発達も遅い。「親としてできることは何でもしたい。少しでもこの子のためになるなら」。将来上手に運動ができるようにと、手足の屈伸もした。

 その経験が“第二の人生”につながるとは、知るよしもない。毎日が必死だった。

 真由帆が中学に行かず不安定だった2013年3月、管理職として県外への転勤が避けられなくなり、辞めた。真由帆だけでなく剛輝にも手が掛かる時期に、単身赴任などできなかった。

 いったん近くの会社に就職し、娘の高校進学が決まったのを見届けて、好待遇の栃木県の会社へ移った。ところが一転、会社は業績不振となり、15年6月に解雇された。

 半年にわたって120社にエントリーしたが、面接に呼ばれたのは4社。定年間近を理由に断られたのを機に「もう会社勤めはせず、やりたいことをやろう」と決めた。

 失業保険の打ち切りが迫る中、同年12月、東京で開かれていた国際ロボット博覧会へ出掛けてひらめいた。「化繊の糸とセンサーワイヤを織り交ぜ、触れる物の固さや強さを計測できる布を作れないか」。開発には、エンジニアの経験も、趣味のプログラミングも生かせる。

 織布の用途を考えた時、剛輝の級友たちが浮かんだ。失業後は毎日、浜松視覚特別支援学校へ送り迎えしていた。そこで、手足が不自由な子どもたちに会い、剛輝をマッサージしていた頃を思い出した。指の曲げ伸ばしに励む子と、懸命に支える親。家庭での級友たちの姿を想像した。「彼らのリハビリの手助けができたら」

 一人一人の筋肉の力や関節の動きをセンサーが認識して、自動的に加減する。手指の曲げ伸ばしをサポートする手袋形のリハビリ機器だ。脳梗塞などの後遺症でリハビリが必要な大人の需要も見込める。

 16年8月に起業。事業計画は17年3月、静岡銀行と浜松信金のビジネスプランコンテストで最優秀賞に輝いた。すでにあるセンサーワイヤよりも極めて細く、感度と柔軟性が高いことや、幅広い用途が評価された。

 開発事業費は2億5千万円を見込み、21年の商品化を目指す。賞金や公的な補助で一部は賄えるが、大半は金融機関からの融資だ。

 塾の講師やセンサー開発のコンサルタントとして生計を立てながら、すでにセンサーワイヤの開発、販売を始めた。事業を軌道に乗せたら、できるだけ障害者も雇用するつもりだ。

 計画が行き詰まれば自宅まで失いかねないが、「このビジネスがうまくいくことで助かる人がいる」。サラリーマン時代には持ち合わせていなかった“使命感”が原動力だ。(つづく)
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