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カズに聞く、なぜ現役続ける? 神戸の4年半「大きな財産」 [時事]

サッカー元日本代表FWの三浦知良選手(横浜FC)。今季のJリーグ2部(J2)が開幕した2月26日に50歳の誕生日を先発で迎え、3月12日のザスパクサツ群馬戦では自身のJリーグ最年長記録を塗り替えるゴールを挙げた。ヴィッセル神戸で過ごした4年半を経て、プロ32年目の2017年も最前線を走り続ける“キング・カズ”。現役を続ける理由や、今も足を運ぶ神戸への思いを聞いた。(小川康介)


 -初の50歳Jリーガーとして大きな注目を集めている。

 「おばあちゃんから若い人まで、サッカーを知らない人にも『誕生日おめでとうございます』と祝福された。スポーツ選手としてはなかなかないことで、ありがたい。海外でもニュースになったけど、どう見られているんだろうね。サッカーをしている人なら、現役を続けることがいかに大変か分かってもらえると思う」

 -なぜ現役を続けるのか。

 「なんでやめないの? って思っている人も多いらしいね。すがりついているわけでも、つらくてやっているわけでもない。みんなとグラウンドに出るのが本当に楽しいし、僕を必要としてくれるチームがあって、自分の意欲もあるわけだから。サッカーが好きだってことは変わらないんですよ。現役選手として飯が食えて、こんなに幸せなことはない。続けられるものなら、ずっと続けたい」

 -「引退」が、すぐ背後に潜んでいる感覚はあるのか。

 「ありますよ、常に。体も部分的には本当に衰えている。50代といえば、適度な運動をしなさいという年代。それなのにこんなに追い込んで大丈夫かなと思うこともある。他の選手が6、7割でできる練習メニューでも、僕は全力。疲労度が違うし、回復も遅い。神戸から横浜に移籍したとき、あと2、3年で引退だろうと思っていた。あれからもう12年だもんね」

 -12年前と体はどう違うのか。

 「足首も腰も今までにない痛みが出ることがある。練習前の準備の時間、練習後のケアの時間が随分増えた。今は本当の意味でサッカー中心の生活しかしていない。正直、遊びたいですよ。遊ばないと色気がなくなってきちゃうもん。行こうかなと思うけど、やっぱりやめようと思い直している」

 -今もよく神戸を訪れる。

 「年3、4回は帰ります。集まる友人たちの顔ぶれ、行く場所は昔と何も変わらない。普段節制している分、神戸では“フィーバー”する。去年も(シーズン終了後の)12月はそうだった」

 -サッカー人生で神戸時代の4年半はどんな意味を持つ。

 「街の素晴らしさ、人の情熱に触れ、人間として大きくしてくれた。非常に大きな4年半だった。あの経験があったから、横浜FCでも頑張れている。移籍した当時、ヴィッセルは市民クラブだった。経営が大変で、最初の3年は幹部の人たちも『J2に落ちたら、行政から応援してもらえなくなるし、つぶれちゃう。サポーターもいなくなる』と話していた。(サッカーが文化として根付く)ブラジルで育った僕からしたら、なんでJ2に落ちたら応援してもらえなくなるんですかと思った。そこで始めたのが、選手が小学校を訪問する『夢で逢(あ)えたら』だった。お金をかけず、10年、20年と続けていくことで神戸が認知され、地元になくてはならないクラブになる。応援したいという子が1人でも増えたらという思いがあった」

 「2年前、神戸でのチャリティーマッチに出場したときに、いろいろな人に会えてうれしかったし、また神戸で試合ができたらと思った。あのスタジアム(ノエビアスタジアム神戸)が好き。こけら落としでゴールを決め、今でもベストゴールに入れている。神戸に対するひいき目もあるかもね」

 -今季の開幕戦後、60歳までやると話していた。

 「口からぽろっと出ましたけど、現実的に今のトレーニングを続けて60歳までというのは無理。50歳の今シーズンをどうやっていい1日、いい1年にするか。それしか考えていない。数字的なことよりも内容が一番大事だと思う」


 <みうら・かずよし> 1967年、静岡市生まれ。日本代表として国際Aマッチ89試合出場55得点。2001年から05年7月までヴィッセル神戸でプレー、同月横浜FCに移籍した。177センチ、72キロ。


■記者のひとこと

 話題が神戸時代に及んだとき、横でインタビューを聞いていたカズさんのマネジャーが「あのときは単純に楽しかったんだよね」とぽつり。本人も「神戸に帰る」という表現を用い、街への愛着をにじませた。



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親元離れ高校生活 島民50人祝福 熱海・初島 [時事]

静岡県内唯一の有人島、熱海市初島の市立初島中を今春卒業した萩原奏映さん(15)が5日、親元を離れて高校生活を送るため初島漁港から出発した。同校の教職員や家族、岸壁には島民ら約50人が見送りに集まり、若者の旅立ちを祝った。

 花束を手にした萩原さんが船に乗り込むと、色とりどりのカラーテープが船と岸壁をつないだ。島民らからは船が島を離れて姿が小さくなるまで、「元気でな」「頑張れよ」と声援が続いた。萩原さんも力いっぱい手を振り返して声援に応えた。

 萩原さんは併設の小学校と合わせ、児童・生徒が5人の同校で唯一の卒業生。6日から、三島市内の高校に通うという。萩原さんは「自分が(見送りを)やってもらう側になり感動し、うれしかった。今まではずっと学年で1人だったので、慣れないこともあるかもしれないが、勉強をしっかり頑張りたい」と新生活に向けて希望を膨らませた。

 見送りは、進学などで島を離れる生徒が出た場合に行う恒例行事。少なくとも数十年前から続いていて、多くの島民が経験しているという。

静岡新聞社
心が温まりました…
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2
>> 返信コメント 2件
tho***** | 2017/04/06 10:49


頑張ってね(^-^)
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おじさん 何某 | 2017/04/06 10:46


次の学校でも良い人に恵まれます様に~




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元プロ投手近田さん、駅員に 報徳で甲子園3度出場 [時事]

選抜高校野球大会2回戦を26日に控える兵庫県の報徳学園(西宮市)。10年前、同校の左腕エースとして甲子園のマウンドに立った近田怜王(ちかだ・れお)さん(26)=西宮市=が、JR三ノ宮駅の駅員として新しい人生を歩んでいる。チームメートとともに白球を追い掛けた3年間を「いいことも悪いことも凝縮された、人生のターニングポイント」と懐かしむ。

 「点字ブロックの内側にお下がりください」。三ノ宮駅のホームに、近田さんの声が響く。

 マイクを持つのは、右手。「投げるのも打つのも左ですけど、マイクはなぜか違うんです」と笑う。

 外国人観光客から英語で質問されたり、車いすの乗客を介助したり、酔客に対応したり。兵庫県内最大のターミナル駅での日々はめまぐるしいが、「怒られても感謝されても、全てが新鮮ですね」。

 区切りを付けて1年余りがたった野球人生。鮮烈なスポットライトに照らされたのは、報徳学園の1年生エースとして臨んだ2006年秋の近畿大会だった。

 31回2/3を投げて2失点という圧倒的な成績で5年ぶりの優勝に導く。直球の伸びがとにかく良かった。

 強力打線の大阪桐蔭(大阪)に対した決勝では、今春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表でも活躍した中田翔選手に本塁打を浴びた以外は3塁を踏ませずに完投。「高校屈指の左腕」の呼称を得たこの試合を、近田さんは今、こう振り返る。

 「野球人生のベストゲームでした」

    ◆

 三田市出身。小学2年で野球を始め、三田リトルシニアに所属した中学時代は、日本代表の主戦投手として世界大会を経験した。

 報徳学園に入学直後は、体重が13キロ減るなど環境の変化に苦しんだが、秋になると実力を発揮する。140キロ台後半の直球とチェンジアップを武器に近畿大会を制し、翌春の選抜では優勝候補の一角に挙げられたが、初戦で惜敗。「打たれる気は全くしなかったんですが、気の緩みがあったんでしょうね」

 夏の選手権でも、県予選を勝ち抜いて甲子園の切符をつかむものの、風邪が完治しないまま臨んだ初戦で脱水症状により降板。チームも敗れた。

 その3日後、始動したばかりの新チームの練習。ランニングの最中に突然意識を失い、救急搬送された。直前の昼食でカレーライスを食べた記憶だけが残っている。

 疲れがたまっていたのだろうと1カ月ほど静養して練習に復帰。5メートルほどの距離でキャッチボールを始めたところ、たたきつけるように相手の足元にボールが転がった。

 仕切り直して、もう1球。同じ軌道で、また低めへ。「コントロールやフォームがどうこういう状況ではなく、赤ちゃんが初めて投げるような感じでした」と振り返る。心身の不調からくる運動障害「イップス」だった。

 練習でボールに触れない日々が続く。表向きは「体調不良」。あせり、思い悩む近田さんをチームメートは優しく見守り、「近田が打たれても、おれたちがカバーするから」と声を掛けてくれた。

 理想の投球を追い求めることに見切りを付けた。「思い通りに投げられない」と感じると、症状が悪化してコントロールが乱れるためだ。「まあ、いいや」と開き直ることで、少しずつ調子が戻っていった。

 3年生の最後の夏、3度目の甲子園に出場。3試合を勝ち抜いてベスト8まで進出し、健在をアピールする。08年秋のドラフト会議でソフトバンクが3位指名。だが、近田さんにイップスが治った感覚はなかったという。

    ◆

 「早く1軍のマウンドに」「できれば先発で」「奪三振王になりたい」

 幼い頃からの夢だったプロ野球選手。マスコミの取材に対し、思いつくままに目標を掲げたが、コーチの問い掛けに、答えが見つからなかった。

 「具体的に、どんなピッチングをしたいんだ」

 練習でも、戸惑った。例えば、自分で目標を設定してのダッシュ。与えられたメニューをこなすことだけを繰り返してきたため、どうすればいいのか分からない。

 描いていた夢が、プロで活躍することではなく、プロに入ることだったと気付いた。

 制球難も克服できず、4年目の12年夏に野手に転向。「クビを覚悟していたからです。将来、指導者になった時のことを考えて経験を積んでおこうと」。その年の秋、1軍出場を果たせないまま戦力外通告を受けた。

 投手として参加した12球団合同トライアウトでも声が掛からなかった。誘いがあったJR西日本に入り、社会人野球の選手として2年半ほどプレー。「プロに戻れる力がない」と判断し、25歳でユニホームを脱いだ。

 現役引退後、痛む体を診察してもらうと、右膝は半月板が損傷し、投球を支えてきた左肩は、関節唇がはがれ落ちていた。今はもう、手首のスナップでしかボールを投げられない。限界だった。

    ◆

 「しんどいこともありますけど、働く場所がある喜びの方が大きいですね」

 15年12月から三ノ宮駅で勤務する。野球選手から鉄道マンという転身にも、戸惑いはなかった。

 ソフトバンクから戦力外通告を受けた後、実家に1カ月ほどこもった経験が影響しているという。何もやることがなく、昼のテレビドラマを毎日見る生活。野球ができなくなるつらさ以上に、仕事がないつらさを実感した。

 今でも、野球かばんを抱えた高校球児が乗り降りするのを見ると、自身の3年間をふと思い出すことがある。だが、それはほんの一瞬。すぐに切り替え、周囲に気を配る。

 JR西に入ったのは、尼崎JR脱線事故で活動を休止していた硬式野球部が再開するタイミング。事故を起こした企業で働く意味は、自分なりに理解しているつもりだ。

 「体を張ってでも乗客を守るのが今の仕事。鉄道の安全に、野球選手の肩書は関係ないですから」(小川 晶)



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